表紙 前文 程順則 程摶萬 蔡温 蔡鐸 曽益 周新命 蔡文溥 蔡肇功
緒言
「琉球の漢詩」は、ひるぎ社発行のおきなわ文庫「琉球漢詩選」に収められている漢詩のすべてを使用させて頂きました。訳詩はすべてオリジナルのものであり、サイト自体が営利を目的としたものではありませんので、ご了解ください。さて、現在、漢詩・漢文が我々にとって難しいのは、その独特な訓読法にあると思います。古人の努力によって外国語である中国語がそのまま日本語に変換されるというのは驚異的なことですが、それが一方では漢詩・漢文を我々から遠ざける要因ともなっています。漢詩の書き下し文は日本語ではありますが、今日の我々にはどこかかけ離れたところがあり、違和感が感じられます。そこで、「琉球の漢詩」では、漢詩をすべて、現代の日本語に訳しました。原則としては、もとの漢詩に使われている漢字をすべて使用して、それ以外の漢字は使わないということです。(但し、「不」、「須」などの助字は日本語に使用すると不自然となるために省略した場合があります。)訳し終えて感じたことは、漢詩であるのに、なんとなく日本語の現代詩のようであり、フランスの象徴詩の訳詩のようでもあり、琉球の漢詩が身近に感じられておもしろいということです。興味を持たれた方、くわしく勉強されたい方は、ひるぎ社の「琉球漢詩選」を是非お読みになって下さい。ネットでも購入が可能であり、また、この本はキンドルとしても発売されているようです。私は、1977年に今の首里城の敷地にキャンパスがあったころの琉大で、上里賢一先生の漢詩・漢文の講義を受けた経験があることを書き添えておきます。
漢詩はなぜ日常的な身近な言葉を使わずに、難しい漢語(中国語)を使用するのかという素朴な疑問に対して、土居光知(どいこうち)著「文学序説」の102・103ページより引用します。「漢詩を作る人が日常用いる語彙の一切を避けるのみでなく、地名や人名までも唐風にするのは、自己の生活のうちから生まれたものでない文化の様式を模倣する一般の心理である。多くの人々は自国語で語る時外国語を交えることを得意とするけれども、外国語で語る時自国語を入れることを恥とする。」(新漢字・新かな遣いに改めました。)
なお「琉球漢詩選」の誤りと思われる部分を以下に指摘します。
@曽益の「過仙霞嶺」の書き下し文の一句目、「峻嶺」が抜けています。
A蔡文溥の「春日病窓書懐」の三句目、蠧(しみ)の字、下が「石石」となっています。
B蔡文溥の「喜雨」其三の二句目、「霂」の字の読みは「りん」ではなく「ぼく」です。
C蔡文溥の「恤農檀」の一句目、「軫」の字の読みは「ちん」ではなく「しん」です。
D蔡肇功の「山居」の語釈:〇嶺巓、「嶺は、山のいただき」は、「巓は、山のいただき」。
E目次で、「程摶萬」が「程搏萬」となっている。